投資の記録

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日本証券史の雑メモ

 

 

 

明治37年

2月 日露戦争→38年9月ポーツマス講和

明治38年

国債未償還額20億8千万(36年は5億4千万)

 

明治39年 不況入り

西園寺内閣、国債整理を打ち出し。国債整理基金特別会計制度

実際には国債増発の方が多い→戦時発行予定の不足分、軍隊引上げ、論功行賞、鉄道建設改良、電話架設、製鉄所拡張、鉄道国有化(払込資本の2倍で買取)

未償還国債額22億5千万→景気が崩れたため重税と公債が重荷

鉄道株→国有化→電力株、取引所株が投機化

電力株は需要の拡大が見込まれ安定業種とみられていた。

現在は人口減少と省エネによって成長性が見込めず、既得権益の安定収益というディフェンシブ価値しかない事を比較すると、産業の収益構造の理解がいかに大切かよくわかる。

明治42年

第二次桂内閣 国債償還、事業繰り延べや行政整理

国債償還→金利をいっそうの低下、

日銀割引日歩 43年初め 一銭八厘(年利6.57%)→三月 一銭六厘(年利5.84)

明治43年

5分利債の5億2千万が償還→4分利債へ借り換え

銀行シンジゲートの本格成立(日露戦争開始時にも政府と銀行の協議はあった)

第一回1億8千万(1億で募集)

第二回1億5千万(1億で募集)

第三回英貨公債1千万ボンド=1億7千万

第四回仏貨公債4億5千万フラン=1億7千4百万※フランスの日本国債初引受け

外債は十年据え置き50年満期

フランスは日露戦争でロシアを支援しており、パリ株式取引所の理事長ベルヌイユは高橋是清に、ロシアと無賠償講和すればフランスがロシアが応じるように交渉することと国債引き受けするためパリ金融市場を開放するという事を約束した前史があったとされる。

このやりとりで一方的に得をしたのが誰かと考えればフランスで、ロシアから債券回収し、更に日本にも貸し付けて利益を得ている。しかも、国債の通貨はフランであるので、為替的にも非常に有利。このあたりに、日本の立場の弱さが表れている。

 

 

大正3年 好景気

第一次世界大戦勃発、新興財閥の台頭と好景気、重工業化、帝国主義

 

大正8年

四月 第一次世界大戦終結

大正9年

三月 戦争好景気の反動恐慌

信用膨張、輸出増大、生産拡大→海外市場の喪失で消滅。

産業資金や投機資金需要の膨張に加えて、輸入急増による輸入資金需要の増加が金融市場を圧迫。=金不足→利子率急騰、株式、商品市場が崩落。

商社と銀行の破たんが相次ぎ日銀が特融して小康取り戻す。

軍縮→財政膨張停止→石井定七事件(11年2月)→銀行恐慌

大正12年

九月 関東大震災

資本集約 大正3→13年 大企業の資本金合計額の全会社に占める割合 38%→62%

資本輸出 満州、台湾、朝鮮などへの企業進出、日本興業銀行、満鉄、東洋拓殖などの植民地投資

 

重要なビジネススキーム

自己金融:自社グループで銀行を設立して一般から金を集めて自社グループ企業に有利に融資を行うことで事業を拡大した。

昭和2年

金融恐慌

 

 昭和4年

世界恐慌

昭和5年

恐慌のなか、金解禁(デフレ政策)→不況がさらに悪化、社会不安極大

 

昭和6年

高橋財政が開始

金兌換停止管理通貨制(井上蔵相は金輸出禁止を予測した三井グループのドル買に敗北)

大量国債の日銀引き受け→10年で物価2倍に。

資金が緩慢になり銀行に預金が集中。

 

昭和7年

井上が血盟団に暗殺される。

 

昭和8年

財閥が株式公開、膨大なプレミアムを得る。持ち株会社中心

対して新興財閥は初めから株式公開し市中から資本を集め巨大化。事業会社を持ち株の中核会社とする。これは日本経済が発展した結果のファイナンス

 

昭和10年

民間の経済活動が回復、

軍事支出が戦時経済下で拡張し始める。→満州経営、国内資金需要、軍事費の3つの支出のために公債が積み上がっていく。

 

昭和11年

2・26事件 軍事支出の一層の拡大に反対する高橋蔵相の暗殺→健全財政志向の崩壊

輸入超過が拡大→統制経済を行うに追い込まれる。 

 

昭和12年

7月7日盧溝橋事件

日中戦争勃発

 

主要新興五財閥の重化学工業化比率が資本金ベースで70%

既成8大財閥の重化学工業化比率は32%

 

昭和13年

 国家総動員

昭和17年

太平洋戦争勃発